自分ヒストリー…Ver.1

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こんにちは。M@moruです。

私についてちょっと自己紹介してみます。
お付き合いくださいませ。

198×年生まれのアラフォーの独身メンズです。
生まれも育ちも関西です。
姉と妹に挟まれた長男で、物心ついた頃には「重度のアトピー性皮膚炎」で「周りと何かが違う」と子供ながら自覚していました。

「卵アレルギー」でとにかく「何が問題なく食べられるのか分からない」レベルだったらしく、母親が色々と試行錯誤してくれていました。

幼稚園・小学校・中学校2年まではとにかく「ガリガリ低身長」の記憶だけあります。

小学校では給食も食べられず、クラスでも違う意味で注目を浴びていたような…。
引っ込み思案の目立ちたがり屋っていう相反する性格の為に人付き合いは苦手でした。

断片的にしか記憶は無いのですが、小学校時代は登校すれば教室の鍵は掛けられ入れないようにされたり、典型的なテンプレートは一通り体験したと思います。

あの時は「登校しない」って選択肢を持てなかったので毎日愚図りながら行ってましたね。

だって、自宅から小学校まで歩いて100mの距離だから…。

まぁ両親も普通に学校での境遇は知ってたと思います。

不思議な事に小中学校時代の「思い出」って殆どありません。

都合の悪い過去の記憶って脳が消し去るって本当なんだなって、つくづく実感してます。

幼稚園の頃などは全国各地の医者や治療法など「良いかもしれない」と耳にしたら足を運んで受診するパターンだったみたいです。

今更ながら思うのは、一番苦労したのは紛れもなく両親だと思いますw

「今の医療では何もできません」とかドラマばりの言葉を医者に言われたって母親から20歳の時に暴露されました。

どうやら「20歳まで生きられる保証はない」と宣告されたらしく、20歳を無事に迎えられたので笑い話として…らしいです。

そんな私ですが勉強も嫌いでしたし、喘息もあったので運動も全く出来ませんでした。

それを脱却するべく「公文式」と「ソフトボール」を気が付けば始めていました。

「公文式」を辞めたいと言えば「じゃあ、ソフトボールも辞めるんやで」と母親に言われ、止む無く頑張っていました。

ただ、また落とし穴に落ちることになります。

小学校4年の時かな。
「ソフトボール」でレギュラーを獲った直後、左足の踵の激痛に悩まされ「踵骨骨端症」と診断され、退部する事となり号泣。

更に理不尽なことに「公文式」を辞める事は一切許されず、結局は中1くらいまで通っていました。

そんな不遇な私ですが、数少ない小学校の記憶で鮮明に覚えている事があります。

それは小学校5年生の校内マラソン大会で今まで順位が3桁だった私が12位に入るという事があり「クラスの目線が変化した」のを実感しました。

今の時代はわかりませんが当時は「足が速い奴はヒーロー」みたいな風潮がありました。

50m走で7秒台だと「クラスのヒーロー部類」だったのですが、私は8秒台半ばではありましたが「そんなヤツがマラソン大会で…」となったのでしょう。

周りからの当たりが緩くなったのが「何かで一目置かれる」事で何かが変わるってのを学びました。

「一種の成功体験」みたいなものだったのかもしれないですね。

ちなみに小学校6年生では6位か何かで、地域の駅伝チームに選ばれたのも何となく覚えてます。

中学に上がり、新たな環境で更に勉強に付いていけず「新たなジャイアン」に標的にされる3年間を過ごしましたw

ストレスから前頭部に500円玉大のハゲが出来たのもこの時ですかね。

部活は野球部でしたが「ザ・体育会系」だったので今だったら×になるような内容ばかりで記憶に残ってます。

中2後半から背が伸び始めたのですが体重が増えず「ガリガリ高身長」と変化。

野球は万年補欠で引退となりましたが、「実力あるものが選ばれる」ってのを学んだ中学時代の苦い記憶でした。

中学時代で覚えてるのは部活位ですかね。。。

一先ず、ここまで。

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